この記事では、1993年に放送されたドラマ「高校教師」の最終回のラストシーンでの解釈について深掘りしていきたいと思います。
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ドラマ「高校教師 1993年(真田広之×桜井幸子主演)」の動画配信サイト一覧-サブスク(1話~11話<最終回>)
1993年1月からTBS系の金曜ドラマ枠で放送された真田広之×桜井幸子主演のドラマ「高校教師(1993年)」。 ドラマ「高校教師(1993年)」とは、教師と生徒との禁断の愛を繊細に描いた、野島伸司脚本 ...
目次
ドラマ「高校教師(1993年版)」の最終回ラストのあらすじをおさらい
羽村(真田広之)が繭(桜井幸子)の父親の耕介(峰岸徹)の胸を彫刻刀で刺してしまうが、耕介の「このまま誰にもバレずに家に連れて帰ってくれ」という要望で三人は一度耕介の自宅へ戻る。
しかし、繭が羽村への想いを確認すると、耕介は自らで焼身自殺を図ってしまう。
警察が動き出したことを知り、二人は一緒に羽村の故郷へ帰ることを考えるが、翌朝繭を置いて羽村だけが自宅からいなくなっていた。
ドラマの終盤では、列車に乗って一人で逃亡していたはずの羽村の前になぜか繭が現われる展開となる。
ドラマ「高校教師(1993年版)」の最終回のラストシーンで考えられる解釈
このドラマ「高校教師」の象徴的なシーンと言えば、やはり最終回の列車の中でのシーンでしょう。
エンドロールが流れた後、赤い糸で結ばれた羽村(真田広之)と繭(桜井幸子)がシートに座ったまま動かなくなるというシーンで、このドラマの幕が下ろされます。
普通の感覚で言えば、「この二人は心中したんだなあ」と思ってしまうでしょう。
しかし、正直この終わり方だけでは様々な解釈ができてしまいます。
ちなみに、このドラマ「高校教師(1993年版)」の脚本家・野島伸司は、このドラマに対して以下のようなコメントを残しています。
死んだか生きているかは、その人の想いに任せます。
ただひとつ言えることは、ラストシーン(列車のシートで二人が寄り添う)はハッピーエンドであったということ。
二人の生死の決定はもはや作家の圏外で、視聴者が決めればいいと思っている。
つまり、このラストシーンは視聴者1人1人が勝手に想像して楽しんでね、と脚本家・野島伸司は言っているわけです。
例えば、この終わり方で考えられる解釈には、以下のようなものが出てくると思います。
おそらく、”二人は死んだ”という解釈をする方がほとんどだと思います。
しかし、1つ1つの映像を細かく観ていくと、私の中で一番辻褄が合ったのは上の4番目の「羽村の幻覚説」という解釈でした。
つまり、
という解釈です。
それでは、なぜ羽村が1人でこの列車の中で自殺したと思えるのかについて、各シーンを時系列順に振り返りながら説明していきたいと思います。
高校教師最終回ラストの生死の解釈1:羽村は繭との最後の夜にすでに自殺を決意していた
羽村は、自分が自首することで繭がすべてを話してしまうことがわかり、二人で新潟に逃亡する計画を立てます。
ところが、羽村は繭が寝ている間にいろいろ考えた挙句、逃げ切れないということを悟ったのでしょう。
もともとは、自分が繭の父親である耕介(峰岸徹)を刺したことが事件の発端であり、繭は一切殺人には関与していない。つまり、繭が罪に問われることはないだろう。
そう思った羽村は、自分一人ですべてを完結させようと自殺を選択したのだと思います。
なので、おそらく繭との最後の夜を過ごしたあの時点で、すでに自らで命を絶とうと決意したのだと思います。
新庄から渡された逃亡資金を受け取る時に手が震えていたのは死への恐怖心
羽村は、(自分が死んだ後に)繭の面倒を見てほしいことを伝えるために新庄(赤井英和)に連絡をし、駅まで来てもらいます。
新庄から逃亡資金を受け取る時に羽村の手が震えていたのは、逃亡からの恐怖ではなく、これからこの列車に乗って死を選択しなければいけないという恐怖心からのものだったのでしょう。
おそらく、この時点で羽村は列車の中で命を絶とうと決心していたと思われます。
新庄も何となくそのことを感じて取っているようでした。
高校教師最終回ラストの生死の解釈2:羽村の自殺したタイミングはトイレの中で毒薬を飲んだ
羽村が列車に乗り込んでからエンディングを迎えるまでのシーンは、視聴者を惑わせるような映像を製作者側が意図的に入れてきてる印象を受けました。
たぶん、視聴者がどう解釈しても辻褄が合うように、作中に答えになりえるものを残してくれているのだと思います。
ただ、羽村の自殺したタイミングがわかるはっきりとした描写がないので、探すのは非常に難しいです。
しかし、無理に映像の中から探し出すとしたら、やはりトイレに向かっていくシーンでしょうか。
羽村は列車に乗った後、しばらく繭からの手紙を読みながらシートに座っていましたが、突然立ち上がりトイレのほうに向かっていくシーンがあります。
わざわざトイレに行って顔を洗うシーンを作中に入れてくるのは不自然なので、おそらく羽村はここで命を絶つための何かしらの行動を取ったという伏線を、製作者側は入れてきたのではないかと思います。
トイレから戻った羽村が、何食わぬ顔でシートに戻っているところからも、時間差で死ねる毒薬を飲んだ可能性を匂わせているのだと思います。
毒薬を作るための知識と材料は、理科の教師であった羽村にとっては当然持ち合わせていたでしょう。
作ろうと思えば、簡単に作り出せたはずです。
もしかしたら、繭との最後の夜に繭が眠りについている間にこっそりと毒薬を準備し、それを持ってきていたのかもしれません。
だとすれば、これから説明する羽村の幻覚説がわかりやすく辻褄が合うものになっていきます。
ちなみに、そんな解釈で観た時に、毒薬を飲みにトイレへ向かう前に羽村が車掌から乗車券を切ってもらうシーンは、とても恐ろしい光景に見えてきます。
なぜなら、まるで死へ向かう列車の片道切符を切られているように見えてくるからです。
この切符を切られた瞬間からもう死の選択から逃れられない、そんな強迫観念を表現しているようにも見えてきます。
おそらく、このあたりも製作者側が狙って入れたシーンだったのかもしれません。
車掌が切符を切るまでの間が少しだけ長いように見えます。
高校教師最終回ラストの生死の解釈3:羽村が幻覚を見始めるのはトイレから戻ってシートに座ってから
羽村が幻覚を見始めるのはトイレから戻ってシートに座ったあたりからでしょうか。
もっと言うならば、羽村がトイレで顔を洗っている時に聞こえてきた繭の「先生!」という呼び声も幻聴であったとするならば、すでにあの時点で薬が効き始めているとも考えられます。
羽村がシートに戻って座った瞬間に、別の車両から学生服姿の繭が、無言で羽村の元に向かってきます。
ちなみに、この繭は羽村がさっきいたトイレとは違う車両から現れているので、「先生!」という呼び声はやはり幻聴だった可能性が高いです。
このシーンを観た時に、普通の感覚では「繭がこっそり隠れて列車に乗っていたんだ」と思ってしまうかもしれません。
しかし、羽村がトイレで毒薬を飲んできたという設定で観ると、突然現れた繭は羽村が勝手に作り出した幻覚を見ているようにも感じ取れます。
例えば、繭が近付いてきた時の羽村のリアクションです。
驚いた表情も見せずに、まるで夢の出来事であるかのように羽村は繭を当たり前のように迎え入れています。
そして、繭が学生服を着ているというのも、教師であった羽村が勝手に作り出した生徒像を映し出しているようにも見えてきます。
つまり、トイレから戻ってシートに座ったあたりから、羽村はすでに意識がもうろうとして幻覚を見ている、もしくは羽村の頭の中で起きている映像が映し出されているだけなのかもしれません。
高校教師最終回ラストの生死の解釈4:その後のシーンはすべて羽村の頭の中で起きている映像
その後に二人で楽しそうに弁当を食べているシーンや、二人で青海川駅(おうみがわえき)で立っているシーンなど、すべて羽村の頭の中で起きている映像なのではないかと思います。
つまり、列車に乗っているように見える繭は、羽村の意識の中で登場している繭にすぎなかったということです。
繭の右手から力が抜けてダラーンとなるシーンの意図
繭が羽村の意識の中で登場しているだけの存在ならば、なぜ繭の右手から力が抜けてダラーンとなるシーンを入れてきたのか?
当然、繭の右手から力が抜けた瞬間に死が訪れた、という表現には間違いないでしょう。
もし、繭が本当の繭であったとしたら、二人は現実の世界で心中したという表現です。
しかし、羽村の意識の中で二人が心中する映像を映し出しているとしたら、仮に繭がいなくても繭の右手から力が抜けて二人は心中したという表現を作り出すことはできます。
そう考えると、列車の窓ガラスに描かれた絵(ハートマークの中に二匹の猫がいる)の存在も何の違和感なくそこにあったと解釈することができます。
まとめ:ドラマ「高校教師」の最終回ラストの結末はハッピーエンドだったのだろうか?
脚本家の野島伸司は、「ラストシーン(列車のシートで二人が寄り添う)はハッピーエンドであった」ときっぱりと言い切っています。
しかし、もし羽村が見ていた繭は幻覚であり、実際にこの列車に繭は乗っていなく、羽村1人がこの列車の中で自殺したという解釈で観た場合、これはハッピーエンドと言えるのでしょうか?
当然、現実に繭は一人取り残されてしまっているわけで、繭視点では決してハッピーエンドにはならないでしょう。
ところが、最後に流れる羽村のナレーションを聞くと、それでもハッピーエンドだったと言い切る野島伸司の考えが理解できたような気がしました。
僕は今、本当の自分がなんなのか、わかったような気がする。
いや、僕だけじゃなく人は皆、恐怖も、怒りも悲しみもない
まして名誉や、地位や、すべての有形無形のものへの執着もない
ただそこに
たった一人からの、永遠に愛し、愛されることの息吹を感じていたい。
そう・・・ただそれだけの無邪気な子どもに過ぎなかったんだと。
今まで過去形で話していた羽村のナレーションが、ここにきて初めて現在進行形で語られています。
つまり、この「高校教師」というドラマは、すべて羽村視点で描かれた回想録だったいうことです。
このドラマのラストシーンで描かれた列車でのシーンは、もはや羽村にとって現実に繭が隣に座っていようがいまいが、たいして重要なことではないのだと思います。
それよりも、今まで人を愛し、愛されることを感じられずに生きてきた羽村が、繭と出会うことで初めてそれを体験し、生きている幸せを感じることができた、それを目一杯感じ取っている瞬間なのでしょう。
自分の隣にいる繭、同じ駅で一緒に立っている繭、赤い糸で結ばれた状態で安らかに眠っている繭と自分、繭が窓ガラスに描いてくれた絵
ラストシーンで描かれた列車でのシーンすべて、死に向かって意識が遠のいていく中で、羽村が都合よく描いた理想の情景だったのではないでしょうか。
そこには一点の曇りもなく、羽村にとってのハッピーエンドだったということなのでしょう。